大学

目次

歴史


高等教育機関の歴史


大学の定義によるが、単に高等教育機関という意味でとらえれば、その歴史は、 紀元前7世紀創設の タキシラ僧院が最古のものとなる。タキシラ僧院では、卒業生に学位にあたるものを与えており、 世界遺産遺跡がある現在の イスラマバード北西、 パキスタンタキシラにあったが、 西暦 6世紀に街と共に破壊された。古代インドでは、 タキシラナーランダヴィクラマシラーカーンチプラム学問の中心地として存在していた。

紀元前5世紀設立の ナーランダ大学は、 インドナーランダに所在し、 仏教の学問研究で有名で、学位にあたるものの授与のほかに、今の 大学院にあたるコースもおこなっており、 中国東アジア中央アジア東南アジアペルシア中東からも人々が学びに来ていた。

紀元前387年にギリシャの 哲学者 プラトンが作った アカデメイアギリシャアテナイ, Αθήναι)では、 数学哲学等を教えており、 十字軍以降 イスラム世界を通じて中世 ヨーロッパの大学に成立に多大な影響を及ぼした。その他にもギリシアでは、 ヒッポクラテスの故郷 コス島には 医学校、 ロードス島には哲学の学校があり、 アレクサンドリアには、 博物館図書館があった。

6世紀には、 サーサーン朝 ペルシャで、 グンデシャープール大学ジュンディーシャープール)があった。

カロリング朝には、 アーヘン(今の ドイツノルトライン=ヴェストファーレン州の街)に、 シャルルマーニュ scola palatina, palace school, 宮廷学校という名の学校をつくった。Brexgata University Academy もカロリング朝指導者により、 798年、今の フランス、Noyon 近郊に設立、学者、統治者、聖職者、シャルルマーニュ自身などが参加して、一般市民の教育について、統治者の子どもの(次世代の統治者としての)教育;統治、侵略者からの領地の防衛、浪費を防ぐ術 など議論していた。これらの活動は大学(universitas)の下準備となった。

ヨーロッパにおける中世最初の大学は、 849年ビザンツ帝国 アモリア王朝3代 皇帝 ミカエル3世摂政Bardas Mamikonian によって建てられた コンスタンティノープル大学(あるいはマグナウラ宮殿の大学)で(次代の マケドニア朝ルネサンスの先駆)、 9世紀には サレルモ大学が作られた。

976年北宋時代)には 岳麓書院書院 (中国)が創設された 。中国の古代の伝説では、『漢書』儒林伝では「夏は校と曰い、殷に庠と曰い、周に序と曰う」とある。 周朝では辟雍と呼んだともいう。しかし、高等教育機関の名として大学の名称が周のものとして伝えられるものに由来することが有名である。 礼記王制「天子命之教然後為學。小學在公宮南之左、大學在郊。天子曰辟癰、諸侯曰頖宮」。それ以後は、 太学漢朝202220年)、 国子監隋朝などの名で呼ばれた。

988年創設の アル=アズハル大学966年設立の モスクに由来)は、 エジプトカイロに所在し、 イスラーム法学プラトンアリストテレスなど古代ギリシアの研究が行われ、大学院にあたるコースも行っており、最初の成熟した大学とみなされている。

大学(universitas)の歴史


大学を近代西欧語の大学( :Università、 :university、 :Université、 :Universität)という意味でとらえれば、その歴史は、 11世紀- 12世紀に始まる。 ヨーロッパ最古の大学として、 イタリアの"Alma Mater Studiorum" ( 1088年設立、現在の ボローニャ大学)が開設された 近代的大学の前身はそのルーツをパリにみることができるという見解もある。市民と学生の間の緊張と教会による知識人の指導の検閲に不満だった、アベラールとその他の人は、中世のギルドに擬せられる、大規模で自律で永続的な高等教育機関である Universitas(統合体) を組織した。。その後、 イングランドオックスフォード大学(同大学より 1209年に分離して ケンブリッジ大学が誕生)、 フランスパリ大学スコットランドグラスゴー大学と開設されていった。もともとはラテン語の "universitas" (ウニベルジタス)を起源とし、教師のギルドと学生のギルドが1つにまとまった組合団体という意味であった。

中世 ヨーロッパにおいては 神学部キリスト教聖職者の養成)、 法学部法律家の養成)、 医学部医師の養成)の3つの上級学部と 哲学部ないし 学芸学部との4学部からなり、 専門職を養成することが大きな役割であった。12世紀から13世紀の間の社会の専門職化の増大に伴って、同様の要求が職業的聖職者に対しても増大した。12世紀以前には、ヨーロッパの知的生活は 修道院に託されていた。修道院は、もっぱら 典礼と祈りの研究に関わっており、少数の修道院が本当の知識人を誇ることができた。 教会法秘蹟の研究についての グレゴリウス改革の重点化に従って、司教は、教会法に基づいて聖職者を養成するための、さらに説教と神学的議論で使うための論理学や論争、より効果的に財務を管理するための会計学をふくむ教会運営のより世俗的側面においても聖職者を養成するための大聖堂附属の学校 (cathedral schools) を組織した。西欧の多くの中世の大学は カトリック教会の後援により生まれた。

学習は、教会の ヒエラルキー内での昇進に不可欠になり、同じように教師は名声を集めた。しかしながら、需要はすぐに、本質的に一人の教師によって運営されていた大聖堂附属学校の容量を越えた。なお、そのうえ、大聖堂附属学校の学生とより小さい町の市民との間で緊張が高まり、大聖堂附属学校は パリボローニャのような大都市へ移転した。

13世紀に、教会における最高位の職務の約半数が修士学位所持者によって占められ(大修道院長、大司教、枢機卿)、次に高位の職務の三分の一以上が修士によって占められていた。加えて、中世最盛期の何人かの偉大な神学者、 トマス・アクィナスロバート・グローステステは、中世の大学の産物である。中世の大学の発展は、ビザンツやユダヤの学者からのアリストテレスの広くいきわたった再導入や、アリストテレス主義の思想を支持してのプラトン主義や 新プラトン主義の人気の衰えと符合する。

中世の大学は、キャンパスを持たなかった。授業は教会や家のように場所が使える所ならどこでも行われ、大学は物理的な場所ではなく、教師のギルドと学生のギルドが1つにまとまった組合団体として互いに結び付けられた諸個人の集まりだった。この呼称で知られる高等教育機関としての大学は、まさに中世のイタリアから始まったものであり、それ以外の世界各地にあったという古代の教育機関とは直接の派生的な関係はない。

大学は一般に、教師に給料を支払う者に依存する2つのタイプに従って構成されていた。第一のタイプはボローニャにおけるもので、学生が教師を雇い給料を支払う。第二のタイプはパリにおけるもので教師は、教会から給料を支払われる。この構造的な違いは他の特徴を作り出した。ボローニャ大学においては学生が全てを運営した――事実しばしば教師は大変な重圧と不利益のもとに置かれた。パリでは教師が学校を運営した。従って、パリではヨーロッパ中からの教師にとって第一の場所になった。パリでは、教会が給料を払っていたので、主題的な事柄は神学だった。ボローニャでは、生徒はより世俗的な研究を選び、主な主題は法学だった。

大学の研究は学士号のために6年かかり、修士号や博士号のためにはさらに12年に及んだ。最初の6年は、 リベラル・アーツ (=自由七科)(算術、幾何、天文、楽理、文法、論理、修辞)を研究する哲学部(faculty of the arts)に学んだ。当時ポピュラーな教授法だったスコラ学との緊密な結びつきがあるために、最も重視されたのは論理学だった。

ひとたび学士(Bachelor of Arts)を取得すると、学生は修士や博士となるべく三つの学部―法学部、医学部、神学部―から1つを選ぶ。神学は学問のうち最も名望のある領域で、かつ最も難しい領域だった。

課程は主題やテーマによってではなく書物に従って設けられる。例えば、ある課程は アリストテレスの書物あるいは 聖書からの書物に基づいてあるかもしれない。課程は選択ではなく、課程の設置は固定され、全員が同じ課程をとらなければならなかった。しかし、どの教師が使用するかにしたがって臨時の選択があった。

学生は大学に14、5歳の時に入った。授業は、午前5時か6時の開始が普通であった。

学生は聖職者と同様の保護を与えられた。この仕方で、だれも学生に肉体的な危害を与えることを許されず、学生は教会裁判所において犯罪のために審問されるのみであり、従っていかなる 身体刑からも免れていた。このことは学生に都市環境においてとがめなく世俗法を犯す自由を与えた。実際、多くの乱用がなされ、盗み、強姦、殺人は、ゆゆしい結果を直視しない学生の間では珍しくはなかった。このことは世俗的権威とともに不安な緊張へと導いた。学生は時々都市を去り何年も戻らないことによって「ストライキ」した。これは、(学生によって始められた)暴動が多数の学生を死に至らしめた後、 1229年のパリ大学ストライキにおいて起こった。学生はストライキしつづけ、二年間戻らなかった。

以上のように学生は聖職者的な地位をもつため、女性は大学に入学することは許可されなかった。

大学の研究のためのポピュラーな教科書は、 ペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』といわれる。神学生や修士はカリキュラムの一部としてこの教科書について広範な注釈をかくことを要求された。哲学と神学における中世思想の多くは、スコラ的な文献注釈に見出される。なぜならスコラ学は非常にポピュラーな教育法だったからである。

ヨーロッパにおける国際的な卓越性をもつどの大学も 神聖ローマ帝国によって「ストゥディウム・ゲネラーレ」(Studium Generale)として登録された。この施設の構成員は、異なったストゥディウム・ゲネラーレにおける講義課程をしばしば与えるので、ヨーロッパ中にかれらの知識を広めるよう奨励された。

近代以降の発展


米国では 1636年ハーバード大学(最初はHarvard Collegeとして)が、続いて 1693年ウィリアム・アンド・メアリー大学(College of William and Mary) が設立され、 1749年には ペンシルベニア大学(University of Pennsylvania) が誕生する。

自然科学は、長く各国の科学アカデミーのレベルで研究が進められた。

19世紀に至り、哲学から心理学、社会学、教育学などが分離、民俗学や遺伝学、生理学、物理学などが急速な発展を遂げ、今日の大学の基本的な諸分野が、ほぼその骨格を現すことになった。特に重要なのは言語学者でプロイセンの政治家としても有名だったフンボルトがその骨格をつくったベルリン大学である。国家からの学問の自由を志向し、なにより研究を大学の重要な機能としたベルリン大学は、各国の大学のモデルとなり、その産業形成を支えた。

20世紀になってからは、欧米以外の世界の各国でも多くの大学が誕生してくるようになる。ヨーロッパでは、人文自然科学でも理論的な学問研究が、大学の主要学部とみなされた。また、経営学や音楽、美術、工学などの単科大学や大学校はやや差別的な位置づけをされていた 例えば、ドイツでは大学をいうUniversitätよりも、格下、もしくは別種のものとしてHochschuleとして区別している。が、徐々に大学の構成学部として認知されるようになってきた。

21世紀に入ると、情報科学、社会福祉、都市開発などで従来にはなかったような新しいコンセプトの学部も、世界各国のそれぞれの国内事情に対応して誕生するようになってきた。



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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』